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松下徳太郎さんの6回目の訪問記


○・・ 今回の報告をさせていただきます。
今回の主な目的は埼玉県北本市に住む私の友人である大畑啓美さんの依頼で今年収穫した
米300Kgや好評のパンを南三陸町に運ぶのと、今後の支援について、現地の方々のご意見や
現状を伺うことでした。
 今回で6回目となる訪問ですが、今回は何故か?我が家の奥様(我が家では様が付きます)が
一緒に行きたいと言い出したため、初めて2人で行くことになりました。多分、先日のラーメンショーで
歌津の皆さんにお会いしたので、行ってみたいと思ったのでしょう。

○・・今回は初めての妻のために直接仮設に伺うのはやめて、遠回りをして戸倉から志津川に抜
ける道を通って、被災地を実感してもらうことにしました。すでに、かなりのガレキが片
付けられているものの、テレビの映像でしか見ていない妻の衝撃はかなり大きかったようで、
自分の予想と現実のギャップに驚いておりました。
戸倉側から志津川に入り、防災センターの前を抜ける時にセンターの下に祭壇が設けられ
ていたので、急遽、手を合わせて行こう、ということになり、そこで一旦停車。何故か?
私の知らないうちにロウソクとお線香を用意して来た妻と祭壇に向かって行くと、残念なが
ら私にだけ、どこからかイエローカード!やむなく、妻に祭壇にロウソクとお線香をあげて
もらい、私は後方待機。

○・・防災センターはテレビなどで広く報道されているためか、訪れる方も多いのですが、中には記念
写真だけを撮って帰られる方もいて、非常に残念に思いました。たまたま、その場に神奈川県警
のパトカーが停まっていたので、同県のよしみで警察の方にお話を伺うと、記念写真だけの方が
結構いらっしゃるので、残念だ・・・と話しておられました。神奈川県警からの応援は主に、
信号が流されてしまった場所の交通整理ということでしたが、南三陸町の皆さんは譲り合いの精神
が豊富のようで、都会と同じ感覚で交通整理をするよりも、譲り合いの精神におまかせした方が
スムーズなようです。と話されておりました。日頃、都会で「ケツのまくり合い、隙の探りあい
運転の世界」に身を置く我々には耳の痛いお話でした。

○・・防災センターを後にしてすぐに目に入るのが気仙沼線の志津川駅の跡です。と言っても、何も
残っていないため駅という感覚はまったくありませんが、その先にトンネルが残っているため
「ここに線路が通っていたのだなぁ」と思うだけです。そしてその先の高台にあるのが先日まで
避難所になっていた志津川中学校です。ここは私が毎回伺って、町の全景を写真に収める場所です。
今回も写真を、ということで橋を渡り始めた時、川に何か泳いでいるのに気が付きました。なんと
遡上してきた鮭でありました。さっそく車を停めて、橋の上から見物することにしました。志津川
中学の下の川は震災の影響か、幅も狭く、水深も浅いのですが、水面に背びれを出した鮭がたくさん
泳いでいて、驚きというか感動の光景でありました。


○・・さて、鮭の群れを後にして向かったのが10/1に開店した「Can美容室」のTさんのお店です。約
一ヶ月ぶりの再会でしたが、お元気そうでなによりでした。田畑さんに現状をお伺いしたところ、町
の中は片付けは進んだものの、復旧復興については以前とほとんど変わっていないとのことでした。
原因はやはり、行政の計画がまとまっていないことで、いつになるのやら・・・

○・・Can美容室に米やパンなどを降ろした後は小森地区の仮設に住んでおられるKさん宅にお米の配達です。
小森地区の仮設は細くて急な坂を登った高台にあります。あいにくKさんはFM局の仕事で不在のため、
お母様にお渡しして今晩の宿となるニュー泊崎荘に直行しました。途中、道路が突然消えていたり、
通行止めになっていたりで我が家の奥様はびっくりの連続でしたが、こちらはいつもの慣れた道のため、
無事、宿に到着することが出来ました。ニュー泊崎荘は先日まで避難所となっていた所で、私達がお
世話になった晩も、復旧工事の関係者やボランティアの方々が数多く宿泊されていました。

○・・そして次の日の朝、歌津のAさん宅へ、お米とパン、作業に使う前掛けの配達に伺いました。事前の
お話では、鮭の水揚げが見学できるかも知れないとの事でしたが、あいにくの時化で漁はお休みとな
ってしまい、残念ながら見学することはできませんでした。そのかわり、ワカメ養殖に使うロープ
や浮き玉を見せていただいたり、色々なお話を聞く事が出来て非常に勉強になりました。
まず、鮭漁は11/20で終了し、その後はワカメ養殖の準備でロープにワカメの種を挟む作業をするそ
うで、今年はロープが全て流されてしまったため、ロープや浮き玉を新しく買わなければならなかっ
たそうです。ワカメ用のロープは我々が普段、目にするロープとは形状が異なるもので、値段も高く、
阿部さんのところでは40本必要だそうです。ですから、全て流されてしまった漁師の方々は新しく
ロープや浮き玉などを買い揃えなければならず、大きな出費を強いられることになります。当然のこと
ながら、ワカメが成長して出荷できるのは来年になってからですから、それまでは出費だけがかさんで
無収入の期間が続くということになります。


○・・Aさん宅で色々なお話を聞かせていただいた後は小泉地区のOさんのお宅にお米の配達に向かいました。
小泉地区はガレキも流されてしまった地区で前回伺った時は家の土台だけが残る荒涼とした土地が広がる
所でしたが、気仙沼線の高架の上に乗っていた家や線路が片付けられていただけで、他は前回とほとんど
変わっていないという印象を受けました。

   小泉の次は袖浜地区の仮設で世話人をしておられるOさん宅にお米を配達です。小泉から45号線を通って
志津川へ入り、袖浜に向かうルートを選んだのですが、肝心の道路が満潮のため冠水していたために通行止
・・・こりゃ、どうやって行くんだ?と悩んだ末、ベイサイドアリーナのFM局に居るKさんの所で聞けば良い
と思いつき、ベイサイドアリーナに直行!Kさんとは一ヶ月ぶりの再開です。南三陸町には仮設団地が数多く
あるため、Kさんもよくわからないとのことで、大体の見当をつけてKさんも同乗してベイサイドアリーナ
を出発し、袖浜の仮設であろう場所を目指しました。やっとこさ小野寺さんの住む仮設を見つけたものの、
あいにくの留守・・・電話も不通だったので、やむなく置手紙を残して物資は玄関へ・・・(家に携帯を忘
れて外出していたそうです。)Oさんとは観洋避難所でお世話になって以来、お会いしていないので、是非、
お会いしたかったので残念でありました。

○・・さて、2日間にわたる訪問もそろそろ時間切れ、ということで最後にCan美容室にご挨拶・・・と、そこで奥様から
「もう一回、鮭見たい」との、ご命令が下り、志津川中学の下とは別の川に行ってみることにしました。
「おぉっ〜、いるいるっ」川をせき止めるような形でV字状に網が仕掛けてあり、V字の先端にカゴが仕掛けて
あります。河口から遡上してきたサケは網の目に沿ってV字の先端に泳いで行き、カゴの中に入る仕組みです。
バシャバシャと跳ねたり、岸に乗り上げたり、見ていてまったく飽きないというか何というか・・・カメラを
向けると何故か?跳ねるのをやめてしまったり、潜って行ってしまったり・・・「オイオイ、別に獲って食おう
という訳じゃねえんだからさぁ〜、でも、美味そうだなぁ〜」都会人の 発想の貧弱さを見透かされているようで
ありました。しばしサケを眺めていると今度は「カワセミ」が網の上に着陸!「おぉっ〜」と望遠レンズを車に
取りに行っている間に非情にもカワセミ君は空の彼方に飛び去った後でありました・・・

 【支援の継続について】
 私の周りでも「もう半年以上経つし、仮設も完成したし、道もきれいになったじゃん(神奈川弁です)もう支援
しなくてもいいんじゃないの?」との声が聞かれます。「現在の南三陸町はガレキが片付けられて綺麗になって
います。」というのはテレビの映像やアナウンスで、実際は片付けられたのではなく、一ヶ所に集められている
だけです。ようするに、「家庭訪問の時に急遽、雑物を押入れや別の部屋に押し込んだ状態」です。さらに以前、
町の中心というか、賑やかだった地区はまったく手をつけていない状態が続いています。
もともと町の人口は17000人でしたが、現在は数千人の方々が町から出てしまっている状況です。
「何故か?と言えば、町には家もなく、仕事もなく、店も無い、土地はあるが、手をつけられない」、
他の町ならそれらがあるし、便利だし、ということです。
漁業について言えば、仕事の本格化はまだまだ先、というのが現状です。前にも書いた通り、現地では
ワカメの種挟みが本格化しています(注、世話人さんによれば個人だけではなく漁協などによって集団での
取り組みも活発化している)。これは漁業が復旧しつつある証ですが、いかんせん、ワカメが成長して出荷
できるようになるのは来年のことです。

それまでは無収入の状態が続き、なおかつ、流されてしまった
ロープや浮き玉の負担があるわけです
から、もう支援は必要ない、というのは誤った見方だと考えます。 町については、仕事を再開し、自立を始めた方々
が数多くいらっしゃいます。ただ、小森や入谷の仮設などの老人に冷たい仮設や、無収入の状態が続くような方々対し
ては、またまだ支援が必要と思われます。幸いなことに、世話人の方々が、そのへんを考慮して配布を行っていただい
ているようなので、ここは世話人さんの方々にご苦労をお願いするのが得策かと考えます。

【支援って?】
 一般に支援というと、義捐金や物資、労力が頭に浮かびますが、何度か現地へ足を運ぶうちに、それだけが支援
では無いということに気が付きました。
皆さんもご存知のように、現地は一面のガレキの山が片付けられ、一見綺麗になってきました。それはそれで復旧が
進んだ証なのですが、町をまわってみると、ガレキは一箇所にまとめられただけで住み慣れた場所は相変わらずの状態で、
町であって町では無いという状況です。我々はテレビなどの映像で見るか、たまに現地に行って目にするだけです。
しかしながら、現地に住んでおられる方々は朝起きて外に出ると、昨日と同じガレキの景色が目に入ります。これが
3/11以来、少しずつ変化しつつも同じ景色です。これが日に日に復旧が進み、崩れた道路が元通りになり、町の復興計画も
まとまって仕事も多くなってきた。というならまだしも、現実はまったく逆の状態ですから、閉塞感、憂鬱感、ため息が
蔓延することになります。このような状況の下では我々のような現地に直結した支援がかなり有効になっていると思います。
たとえ物資でなくてもメールや手紙、写真でも自分達が外の人たちと繋がっているのが確信できることもひとつの安心感
になるものと確信します。
たとえば、仕事などでイヤな事、うれしい事があって、帰宅してから家族に話を聞いてもらうとスッキリしますが、誰も
聞いてくれる人がいなかったり、いても無視されるとガッカリしたり、喧嘩に発展することもあります。ですから、
「支援なんてもういいじゃん」ではなくて、プチ支援でもいいから続けていくことが復興の一助になるものと思います。

【漁師さん】
 私の住む神奈川でも仕事を探している人がたくさんおられます。現地でも多くの漁師の方々が家だけでなく仕事も流さ
れてしまいました。ただ、神奈川と違うのは船さえあれば魚はいる。ということです。船というのは、ある意味で家と同
じ大きな財産です。船は我々が予想するよりもはるかに高価な買い物です。車を入れ替えるような感覚ではとても買うこ
とはできません。目の前の海にたくさん魚がいるのに船が流されてしまったために獲ることができない・・・漁師の方々
の気持ちは察するに余りあります。本来ならば船を流されてしまった方々にも義捐金を配布するのが政治の使命だと思
うのですが、やはり漁師さんの現場を見ていない政治家の方々の愚かさ・・・情けない話であります。

【サケと都会人】
 今回、運よくサケの遡上を見ることができました。人間にとっては予想だにしなかった震災
と被害でしたが、サケは何事も無かったように川を遡上してきました。とはいえ、サケの遡上を
見つけて騒いでいたのは私と奥様のみ、町行く人やカモメはまったくの無関心。よくよく考え
てみればサケは毎年この時期に川に戻ってくるので別に珍しいことでは無いのです。
サケといえば「切り身かせいぜい新巻」しか頭に浮かばない我々の発想の貧弱さ・・・情けない
話であります。また、これもまったく知らなかった事なのですが、川に入ったサケは身はボロボロ
で卵(イクラですな)も硬く変化しているそうで、不味いそうです。なるほど、カモメ達が死にたて?
のサケを目の前にしても見向きもせず、こちらの落花生に飛びついてくる理由がわかりました。
現地では貸切バスに乗ってホランティアに来ている多くの方々が見受けられられますが、その
ほとんどは一箇所で片付けなどを行い、終了したらそのままバスに乗って帰還というパターンです。
このような方々も、ちょっと時間を割いて、サケの遡上を見てから帰られれば良いのに・・・と思いました。

【ボランティア】
 袖浜の仮設の位置が判らず、ベイサイドアリーナのFM局にお邪魔して際、ベイサイドアリーナの外に
小さなテントが並んでいるのを見つけました。泊りがけでボランティアに来ている方々のテントだ
そうです。何でここでテント生活なの?いくら個人の意思で来ているボランティアでも町のために
来ているのだから、せめてアリーナの一部を開放して寝泊りする場所だけでも提供してあげてもいい
のではないかと思ったしだいです。

【防災センターと慰霊祭】
 前に書いた通り、廃墟となった防災センターの下には祭壇が設けられ、訪れる人が後を絶ちません。
不謹慎なことに、中には記念撮影だけをして帰ってしまう方も見受けられました。また、ここ以外でも
気仙沼線の高架の上に乗った家の屋根に近づいて写真を撮っている方もいらっしゃいました。ロウソク
や線香を用意しろとは言いませんが、せめて祭壇に手を合わせるなり、ガレキとなった家に一礼してから
写真を撮らせていただくのが生きている我々の努めだと思います。また、防災センターでは、ここで
亡くなられた方々の慰霊際が行われているそうですが、その周りというか、町で亡くなられた方々の
慰霊祭は行われていないとのことでした。イエローカードをいただいた私にしてみれば、全ての方を
慰霊する営みが行われてしかるべきと感じました。

○最後に・・・
 今年もすでに冬となり、北からは雪の便りも聞こえてくるようになりました。今回で6回目となる
南三陸町でしたが、道路の関係などで今年最後の現地行きだったかな?と考えております。
山際さんのホームページを通じて支援を行っている方々は最初から山際さんを知っていて支援に
参加された方はほとんどおらず、偶然このホームページをクリックしてしまった?方々だと思います。
私自身も3/11当時は志津川という地名も知らず、テレビで繰り返し流されていた所に自分が行くことに
なるとは夢にも思いませんでした。おまけに地図も持たずにいきなり志津川中学校に現れた得体の知れない
納豆屋を暖かく迎えてくれただけでなく、その後、何度も現れるたびにどちらが支援者なの?と思うほど
色々とお世話をしていただくなど、ありがたい経験をさせていただきました。これからも無力感にさいな
まれつつも、プチ支援を続けていきたいと考えております。

  ※今回の支援はお米が歌津90Kg、入谷60Kg、小森60Kg、平貝30Kg、袖浜60Kgです。そのほかは袖浜に
レトルトカレー1箱、歌津、入谷にパン60斤、歌津に前掛け30枚などです。
FM局ストーブ1台

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